ABBAに心躍らせ45年
復活した北欧の4人組 休止中の動向も日本に伝える 東山凜太朗
1970年代から現在まで、世界中で愛されるスウェーデンの4人組「ABBA(アバ)」。代表曲「ダンシング・クイーン」「マンマ・ミーア」は様々な場所で聴かれるが、ほとんどの人はグループの実態をよく知らない。私は45年近く彼らを追い続け、昨夏北欧のメディアから「日本唯一のABBA研究者」と命名された。
2018年4月、長年活動休止状態だったABBAが35年ぶりに復活する、という話題が世界を駆け巡った。82年末に休止を発表した当時、再開を期待する声は全くなく、多くの雑誌やテレビが「解散」だと断定した。私はあくまでも「休止」だと主張してきたので、うれしさと同時に肩の荷が下りた気がした。
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小学5年で歌に感銘
初めて聴いたのは、小学5年生だった1975年。テーマパークの東京サマーランドで流れていた曲の覚えやすいメロディーと、美しいハーモニーに感銘を受けた。レコード店で店員に曲の特徴を伝えると「アイ・ドゥ・アイ・ドゥ」だと判明。既に海外ではヒットしていたが、日本では知る人ぞ知る曲だった。
ヒット曲を連発し、頂点を極めた80年前後、中高校生だった私は4人に夢中になる。そのうち彼らの人となりや歴史が気になり、研究を始めた。
ストックホルムのABBA博物館を訪れた筆者(左)(2018年6月)
彼らは「ディスコグループ」「ダンスナンバーが得意」と形容されるが、それは一面的な見方にすぎない。なぜならギターのビヨルン、ピアノのベニー、ボーカルのアグネタとフリーダの4人は、互いに異なるバックグラウンドを持つからだ。
ビヨルンはフォーク、ベニーはロック、アグネタがポップ、フリーダがジャズ。誤解されがちなのは、近年ミュージカルや映画を機にリバイバルした「ダンシング・クイーン」の影響だろう。しかし、スペイン音楽の影響を感じる「悲しきフェルナンド」など、作風は実に多彩である。
成り立ちも面白い。ビヨルンとベニーが66年、公演先で意気投合し、ビヨルンがアグネタ、ベニーがフリーダを連れてくる。69年にビヨルンとアグネタ、78年にベニーとフリーダが結婚。後に離婚するが、グループは続いた。
当初は4人の名前を単純に連ねたグループ名だったが、74年に頭文字をとってABBAと改称する。76年ごろ、正式には2文字目の「B」が反転し左右対称になるが、2組のカップルが向き合い仲良く活動するという意味を込めたという。
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現地に出向き4冊の本
インターネットのない70年代後半から80年代前半、情報を得るのは大変だった。レコード会社や公式ファンクラブが頼みだが、スウェーデンから遠い日本には正確な報道が伝わってこない。
83年に活動休止すると、レコード会社のディスコメイトが運営していたファンクラブもなくなるという噂。私は落胆していたたまれず、自らファンクラブを引き継いで運営したいと申し出た。高校生の分際で良くそんなことを言ったものだ。
その後、私は何度も北欧や米国へ出向き、拙い英語で現地突撃取材を試みた。休止中も女性2人はソロで、男性2人はミュージカル制作で活躍していた。
私が引き継いだ日本のファンクラブはピークの3600人から40人に会員が激減。だが商社や通信社に勤めながら細々と活動を続け、これまでに「やっぱりABBA!」(牧歌舎)など日本人初となるABBA関連書を4冊出版した。
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目標は日本ツアー実現
活動休止後、ABBAが話題になった時期が2回ある。1回目は92年にベストアルバムが出た時。2回目が99年、代表曲を網羅したミュージカル「マンマ・ミーア!」の世界初演時だ。08年に公開された同作の映画版を通して知った人も多い。
ABBAと日本との関係は長年悪かったが、グループを支えるマネージャー、ゴーレル・ハンザーとは頻繁に連絡をとり、昨年にストックホルムの事務所で”謝罪”。関係は復活した。ABBA博物館も訪ねた。
既に録音した2つの新曲は秋ごろに発表する予定だという。マドンナやレディー・ガガがABBAに敬意を示すなど、現代の音楽シーンへの影響も大きい。次なる目標は彼らに再度会って話を聞き、80年3月以来2度目となる日本ツアーを実現させることだ。
(ひがしやま・りんたろう=作家・ジャーナリスト)
https://www.nikkei.com/article/DGXKZO41504880Q9A220C1BC8000/