★ハリウッドの映画監督ラッセ・ハルストレムが撮影したABBAのプロモーション・ビデオ★
プロモーションビデオの制作にあたり、ABBAが頼ったのは、ラッセ・ハルストレムという若いディレクターでした(後のハリウッド監督)。ハルストレムの初めてのABBAのビデオ・クリップ製作は「リング・リング」「恋のウォータールー」でした。1974年に撮影されました。どちらもとてもシンプルで、まっすぐなパフォーマンスでした。1年後にハルストレムは、(ABBA3枚目の)アルバム『ABBA』のアルバムの中から4曲のビデオ・クリップ作るよう頼まれました。「ママ・ミア(マンマ・ミーア)」「SOS」「バング・ア・ブーメラン」「アイ・ドゥ・アイ・ドゥ」です。ハルストレムは前作「リング・リング」「恋のウォータールー」とは違い、彼なりの野心を出しました。そして、のちに様々なミュージシャンがお手本とする様々な手法を編み出しました。また、この頃、制作されていた他のミュージシャンのビデオ・クリップとは違い、ABBAのビデオ・クリップは『ABBAのプロモーション』も兼ねていましたので、よりABBAをビジュアル的に表現しようと考えたのです。例えば、4人のメンバーを異なるペアに組み直したり、メンバーの私生活を映像に入れたりなどです。結果、素晴らしい効果を生み出すことができました。
アルバム『ABBA』のプロモーション・ビデオがオーストラリアでのブレイクに繋がったと分かってからは、ハルストレムはさらに野心を燃やしました。この時以降、プロモーション・ビデオは、ABBAにとって重要な『マーケティング・ツール』となったのです。そして『ビデオ・クリップ』はABBAの場合『プロモーション・ビデオ』という名称で統一することになりました(やがて他のミュージシャンも同じように呼ぶようになる)。ですがABBAの場合、いくら『プロモーション』と言えども、制作費はあまりにも、あまりにも低予算で作られました。しかも撮影に十分な時間が割かれたということもありませんでした。。2本のプロモーション・ビデオが1日で完成されたこともあります。そもそもハルストレムは1960年代から似たような制約の中でテレビ用のビデオを“低予算”で“短時間”で作成してきました。言わば、以前からこの手法でも素晴らしい映像が作れると確信してきたハルストレムはABBAの『ビデオ・クリップ』すなわち『プロモーション・ビデオ』も低予算・短時間で作ることを求められても何のためらいもなく、対処法を十分に熟知していたので、仕上がりは“シンプル”でありながらも、観ている人の注意を引くようなものを作り上げることができたのです。
ハルストレムが唯一、心から満足していないプロモーションビデオは1976年に作られた「悲しきフェルナンド」です。ハルストレムは語ります。「彼らが焚き火の周りに座って、星空のようなものを背後にギターを弾いている。ありきたりすぎる」と。しかし、同年後半に作られた、より明るい「マネー、マネー、マネー」は、とても満足しているそうです。それはABBAも同様です。彼らのお気に入り作品に選ばれています。「映像が歌詞や音楽と合っていたんだ。僕は自分(ABBA)のプロモーション・ビデオを、リズムや音楽にある考えを際立たせるために、音楽に合うように編集するのが大好きなんだ。そして音楽をサポートする。ただストーリーを語るだけじゃなくてね」と後にハルストレムは振り返っています。
★ABBAのプロモーションビデオでストックホルムの街を見る★
新進気鋭の映画監督、ラッセ・ハルストレムはよく、ABBAの歌を『視覚的に魅せる』手法が最善のアプローチだと感じていました。「ダンシング・クイーン」や「ヴーレ・ヴー」のようなダンスビートがある曲の時は、視聴者がまるで今、ディスコにでもいるような錯覚を覚える環境で撮影しました。「ザ・ウィナー」や「ホエン・オール・イズ・セッド・アンド・ダン」と言ったとても寂しげで悲痛な歌詞の時は、アグネタとフリーダが孤独な女性を演じ、1人で広い海を眺めて立っているか、友達グループの蚊帳の外にいる、ようなシチュエーションで撮影しました。
ABBAのプロモーションビデオを観ていると。あかたかもスウェーデン、特に首都ストックホルムを観光しているように思えます。室内のロケーションの例としては、今はもうありませんが、「ダンシング・クイーン」が撮影されたアレクサンドラのディスコだったり、「ギミー!ギミー!ギミー!」の撮影地である、2004年に閉められたABBAの『ポーラー・ミュージック・スタジオ』などがあります。もちろん、屋外のロケ地もとてもたくさんあります。例えば、ユールゴーデンとArsta橋はそれぞれ、「バング・ア・ブーメラン」と「ザ・デイ・ビフォア・ユー・ケイム」のプロモーション・ビデオの撮影場所です。「ヘッド・オーヴァー・ヒールズ」には、ストックホルムの街の中心の景色がいくつか含まれています。もし時間があれば、スウェーデンの西海岸やMarstrandの町に行ってください。そうすると、「ザ・ウィナー」のロケ地に入り込むことができますよ。
ラッセ・ハルストレムは1982年初めまで(ABBA活動停止1年前まで)ABBAのプロモーションビデオ・ディレクターでした。その間、彼は1977年にABBAを取り上げた『ABBAザ・ムービー』(映画)も制作しました。彼が初めてABBAのプロモーション・ビデオを作った時、彼の処女作である映画『恋する男と彼の彼女 En Kille och en tjej 』の公開がすぐそこまで迫っていました。そして、ABBAと彼が別々の道を行くと決めるその時までに、彼はスウェーデンで最も成功している監督の1人として地位を強固なものにしました。1985年に彼の映画『マイライフ・アズ・ア・ドッグ Mitt liv som hund』が公開され、その映画の国際的な成功が、ハリウッドでの結実したキャリアに繋がりました。 そして2009年、日本ではあまりにも有名な『忠犬ハチ公』をハリウッドで映画化しました。皆様もご覧になられたのではないでしょうか?
★ラッセ・ハルストレム経歴
1946年6月2日(73歳)生まれ。ストックホルム出身。父親はアマチュアの映像作家、母親は作家。子供の頃から映画制作に熱中しており、10歳の時に短編映画を完成させる。1975年に監督としてデビューし、その後手がけたABBAの映画『ABBAザ・ムービー』がヒットして知られるようになる。1985年の『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』でアカデミー賞監督賞にノミネートされ、ハリウッドに招かれる。以後、『ギルバート・グレイプ』や『サイダーハウス・ルール』などの良作を手掛ける。 私生活では、スウェーデン人女優のMalou Hallströmと結婚、長男が誕生したが離婚。1994年にスウェーデン人女優のレナ・オリンと再婚、1995年に次男が誕生。
<作品>
・恋する男と彼の彼女 En Kille och en tjej (1975)
・ABBA: The Movie (1977)
・僕は子持ち Jag är med barn (1979)
・気取り屋 Tuppen (1981)
・幸せな僕たち Två killar och en tjej (1983)
・マイライフ・アズ・ア・ドッグ Mitt liv som hund (1985)
・やかまし村の子どもたち Alla vi barn i Bullerbyn (1986)
・やかまし村の春・夏・秋・冬 Mer om oss barn i Bullerbyn (1986)
・ワンス・アラウンド Once Around (1991)
・ギルバート・グレイプ What’s Eating Gilbert Grape (1993)
・愛に迷った時 Something To Talk About (1995)
・サイダーハウス・ルール The Cider House Rules (1999)
・ショコラ Chocolat (2000)
・シッピング・ニュース The Shipping News (2001)
・アンフィニッシュ・ライフ An Unfinished Life (2005)
・カサノバ Casanova (2005)
・ザ・ホークス ハワード・ヒューズを売った男 The Hoax (2007)
・HACHI 約束の犬 Hachiko: A Dog’s Story (2009)
・親愛なるきみへ Dear John (2010)
・砂漠でサーモン・フィッシング Salmon Fishing in the Yemen (2011)
・ヒプノティスト-催眠- Hypnotisören (2012)
・セイフ ヘイヴン Safe Haven (2013)
・マダム・マロリーと魔法のスパイス The Hundred-Foot Journey (2014)
・僕のワンダフル・ライフ A Dog’s Purpose (2017)
・くるみ割り人形と秘密の王国 The Nutcracker and the Four Realms (2018)
ABBAの最後の2作である、「ザ・デイ・ビフォア・ユー・ケイム」と「アンダー・アタック」は、Kjell SundvallとKjell-Ake Anderssonというスウェーデンでとても成功している映画監督2人のチームにより、作られました。このABBAの最後の2曲は1982年にリリース(日本では「アンダー・アタック」は1983年リリース)され、その頃、プロモーション・ビデオは音楽業界の中で、不可欠なマーケティングツールとなってきていました。どちらのプロモーション・ビデオも、やはりとても素早く撮影はされましたが、その2曲分は、今までよりはたくさんのお金を使い、撮影したのです。と言っても、この2曲のプロモーション・ビデオもマイケル・ジャクソンやマドンナのプロモーション・ビデオの予算に比べると「子供に上げるお小遣い程度」の予算だったと言ってもよいかもしれません。
映画監督が一人(一組)のミュージシャンの『プロモーション・ビデオ』を撮り続けた例は他になく、ABBAの“ハルストレムに依頼した先見性”のすばらしさと、低予算・短時間でも“素晴らしい作品を作ることができる”と自信満々だったハルストレムのコンビのまさに『大勝利』だったと言っても過言ではないでしょう。
ここに『プロモーション・ビデオ』が誕生し、“初の成功”をおさめたのです。 FIN