ビヨルン:私たちはお互いを100パーセント信頼している
ABBAの他のメンバーと同様に、ビヨルンは常に自分の私生活を重要視してきました。しかし自身の75歳の誕生日を1週間後に控え、全て語り、打ち明けることを決意しました。
アグネタと恋に落ちたことや、自信のアルコール依存症。ABBAとしてのツアーでのこと。そして、メンバー4人でいまだに会うことなどについて話します。
単に歳を取るというだけでなく、人の命というものはいつか終わりがくるのです。コロナの流行により、そういうことに対して気付くことも多く、死というものの存在を常に意識させられているこの状況で、彼は自説を語ることが大切だと思ったのかもしれません。ビヨルンが今まで語ったことのないことについて話してくれます。さあ、早速、見ていくことにしましょう。
ビヨルンが所有している、Vagaskarという島はユルスホルムのメイン広場からすぐのところにあります。ストランドヴァーゲンから絵のように美しい橋がかかっており、それ以外は水で囲われた島です。そこには手入れの行き届いている庭に囲まれた、黄色い高級なヴィラがあるだけです。
世界的に有名なABBAのメンバーであるスウェーデン人がそこに、妻のLenaとプードルのAres、ミニチュアシュナウザーのLaban、そして害虫駆除サービスからのアドバイスを経て、家族に加わった猫のIssaと共に住んでいます。
ビヨルン:悪戦苦闘したけれど素晴らしかったよ。ネズミが車の下で飛び回ったり、ケーブルを噛んだりしていた。抗トコジラミ剤をわなに仕掛けたりもしたけれど、何一つうまくいかなかった。駆除サービスのの人たちも諦めてこう言ったんだ。「できることはもう他にありません。猫を飼う他には」。
ビヨルンの赤色のテスラと妻のレクサスが玄関の両脇に止められています。どちらの車のケーブルも今は損傷はありません。Issaは狩りの本能がたとえなかったとしても、いつづけたでしょう。
ビヨルン:役割があるんだ。もともとはネズミを捕まえてくれるはずだったんだよ。だから私たちの元へやってきた。そして私たちは大好きになってしまったんだ。この小さな猫がどうしようもなく好きなんだ。とビヨルンは言います。
ホストであるビヨルンは1890年からあるこのヴィラを案内しながら、世間話をしてくれます。大きな窓から透き通るような青い湖の光が入り込むキッチンを通り抜けます。
(ビヨルンと妻のLenaはコロナウイルス対策で隔離されています)。
芝生につながる階段のあるベランダにあるドアは、私たちが訪問中は、コロナウイルスの感染を予防して、この寒さにもかかわらず開けっ放しにされています。ビヨルン夫妻は検疫のため隔離中です。2人とも40年代に生まれたので、スウェーデン公衆衛生局が考える危険性のあるグループに属します。そしてそのグループは接触はごく近親者に限ったうえで、できるだけ家にいることを推奨されています。
ビヨルン:妻は近所に買い物に出かけるときはゴム手袋とマスクをして出かけるし、他の人とは距離を保つようにしているんだ。私たちがしていることはそれぐらい。時々子供たちや孫たちが遊びに来てくれるけれど、私たちはベランダにいるんだ。
妻のLenaは寛解状態ではあるものの白血病を患っている。だから進行はとても緩やかだし、歳も一緒にとっていける。妻は何か別の理由で死ぬかもしれない。と夫であるビヨルンは話します。
ビヨルン:知らせを聞いた時は、すぐ明日にでも何か起こるんじゃないかと思ったよ。こんなに緩やかなものだとは知らなかったし、妻には何の症状もいまだにない。素晴らしいことさ。
しばらくの間驚異的なほど近づいてきていた水平線は遠ざかりました。それも中国の新ウイルスが境界を越え、大陸を超え、命を奪い、国が次々と閉鎖していくまでの話です。
ビヨルン:まだ誰もピンと来ていないと私は思う。生活は二度と依然と同じようにはならないだろう。コロナの後、変わるだろうね。でもいいこともあるだろう。何だろうね。楽しみだ。
ビヨルンは前向きに考えたいと思っていますが、大きな差があります。このパンデミック以前の彼は、自身の家と彼の多くの国際的なプロジェクトの間を飛び回っていました。
ビヨルン:ロンドンにいたと思ったら、次はドイツに行って、それからアメリカに行ったりした。すべてを詰め込んだスーツケース1つでね。旅は常に一瞬だったよ。ニューヨークに1日滞在したと思ったら次の日には帰ったりしていた。まともじゃなかったね。
Q.今もまだ空港にプライベートジェットがあるのですか?
ビヨルン:ないよ。10年前にやめた。罪悪感が出てきてね。サウジアラビアのシャイフみたいでやりすぎな気がしたんだ。
Q.アメリカ同時多発テロの後、自分へのご褒美がプライベートジェットだとおっしゃっていましたね。他に何かご自身へのご褒美はありますか?
ビヨルン:おもしろいね。私は健康を意識していて、太らないようにしているんだ。だから、自分へのご褒美で、自分が太ってしまうようなものを買うということはない。菓子パンや他のそういう好きなものを買うこともない。それにお酒も飲まないから、お酒でお祝いすることもないし、タバコも吸わない。
(ビヨルンは健康でいるために定期的に運動をします。彼と彼の犬の写真です)。
2人の庭師に挨拶するために外にいて、泳いだりしていたプードルのAresは、ドアを通りベランダへと嬉しそうに泥だらけで踊りながら入ってきます。汚れた手を薄い色のカーペットに置きますが、ビヨルンは手編みのカーペットから彼の手を遠ざけます。そして話し続けます。
ビヨルン:なんだろう。何も必要じゃないしね。あれがあれば、なんて想像して、手に入れたらすごく嬉しいような、すごくほしいものは何もないんだ。
Aresは、頭をかしげながらご主人様を見上げます。
ビヨルン:変に聞こえるかもしれないけれど、そういうものなんだ。昔はベニーと二人でよくウイスキーやそういうものでお祝いしたりしていたけど、その時は「うん!1番!それ!」っていう感じだった。でも最近は何でお祝いするかな?
少し間をあけて、ビヨルンは決めました。
ビヨルン:どうせ何も思いつかない。それが全てを手に入れるという特権の結末だよ。それに不満を言うのは違うよね。
Q.お酒は一切飲まないのですか?
ビヨルン:飲まないよ。お酒をやめてから大体12~3年かな。十分飲んだ。お酒は人生に多大な影響を与えた。そうだ。私はアルコール依存症だった。今も禁酒はしているけれど昔はアルコール依存症だったこともあるんだ。
世界で最も象徴的なポップグループの1つだった男性が、青色のストライプの靴下だけで、靴を履かずに座っているその場所から身を乗り出します。
ビヨルン:うまくいかなかった。選択だったと私は思うよ。今まで、誰にもこのことについて話したことはないけれど、私が選択をしたときは、グレーな生活を送るだろうと思っていたんだ。毎日暇だった。でも少なくとも、その頃の状態を続けていたよりは、マシだろうね。
外では庭師たちがイースター用の飾りをラッパズイセンでいっぱいの鉢から集めています。カラフルな羽飾りが風で飛ばされています。
ビヨルン:だからお酒をやめることに決めたんだ。それは人生で一番良かった決断だと思う。9カ月ぐらいかかったかな?それから全ての感覚が研ぎ澄まされて、創造力が湧き上がり、以前よりずっと良くなったよ。
ビヨルンはカウチに背をもたれかけます。
ビヨルン:もっと早くにそうすればよかったと思うよ。でもこの業界では何でも許される。だから結局多くのアーティストやミュージシャンはお酒で問題を抱えることになる。でもやめることができる。多くの人がしているよ。多くの人がね。どこで変わろうとも、誰かはやめられるんだ。
Q.助けを借りたんですか?それともご自身で?
ビヨルン:友人からセラピーのようなものを受けたよ。でも、何も話すことはないという結論には、ほぼ自分一人の考えで至ったと思う。
この会話は、ビヨルンの75歳の誕生日である2020年4月25日の1週間前にされました。感染防止の策が講じられ、ソーシャルディスタンスが叫ばれているこの現状で、どのようにしたら大きなパーティーを開くことができるかわかりませんでした。
ケーキがないかもしれません。そうすれば次の日に一生懸命運動する必要もありません。すこし気が滅入るように聞こえますが、彼は楽しみを見つけられるよう、こうコメントしています。
ビヨルン:でも私はいつも楽しみを見つけるよ。今は全てをあきらめないとだめだけどね。とてもつまらないよ。
(ビヨルンが所する島、Vagaskarでのビヨルン)。
Veckans Affarerという新聞が2019年にスウェーデンのお金持ちをリストにしたとき、ビヨルンは財産15億SEK(約163億円)で、163位でした。ABBAはスウェーデンから世界に輩出された史上最大のグループで4億枚を売るという記録があるにも関わらず、彼はグループ休止後の方がより多く音楽で稼いでいます。
ビヨルンの言葉を引用すると、「ニシン工場と同じ名前のポップグループ」は1982年の秋に終了しました。当時グループはその素晴らしい活躍にもかかわらず、10年後に想像していたほど成功していなかったのです。
90年代の復活は『マンマ・ミーア!』のスピンオフでミュージカルのようなものと、2作の映画、パブパーティのコンセプトで増幅し、やがて何億もを生み出しました。
ABBAで生まれながらにして起業家だったとわかったビヨルンはホテルやエンタメ機関、ショー、不動産や企業に投資をしています。現在コロナウイルスは全てを妨げている状況です。
ビヨルン『Pippi at Cirkus』は6月27日にオープンする予定だったんだ。だけど、私はあえてしないよ。私たちは決めたんだ。いったんすべてをやめて、来年に持ち越そう。今秋のヨーテボリでの『マンマ・ミーア!The Party』どうなるかわからない。でもロンドンの『マンマ・ミーア!The Party』は現在休業中だよ。
世界がロックダウンする前、ビヨルンは『マンマ・ミーア!The Party』の素晴らしい会場を二つ見るためにアメリカ行きの旅行を予約していました。うち一つはブロードウェイにあります。明らかではありますが、その旅行は実現できませんでした。
ビヨルン:ニューヨークは保留中。行く予定だったケルンも保留中。ラスベガスも。ABBAター計画(ABBAのデジタル複製によるツアー)は続行中ですが、計画通りではない。半年は遅れているね。
そして逆境はそれでは終わりません。
ビヨルン:それからABBA博物館、Cirkusとハッセルバッケンもある。それもあまりいい状況ではないよ。劇場には何もない。Vastervikでは一番下の娘が経営しているSlottsholmenは私が建てたんだけど、水に浮いていてね。それもオープン予定だったけれど、ダメだね。
Q.このパンデミックはどれぐらいあなたの経済に影響を与えていますか?
ビヨルン:固定費やお給料など、お金は至る所に流れだしているよ。毎月出ていく。でもそれはみんな同じさ。受け入れるしかない。
その言葉は、自身でやってきた男性から出てきたものです。5年前から、心理療法士が、毎週2時間、島の所有者と話をしにVagaskarにやってきます。話題はよく自尊心に戻ります。
ビヨルン:私たちは、できれば自分のことを愛さなければならないという話をします。私はできたことがなかった。許したり、自分に共感したり。何年もかけて学んだよ。自分自身をありのままに愛していると口に出せるようになることは、ずっとできなかったよ。
(毎週水曜日にビヨルンがセラピストと会う、島のコテージで)。
Q.ご自身を卑下してしまうことはありますか?
ビヨルン:もちろんあるよ。自己卑下とか、自身の能力に対する自信のなさとかね。夜と夜明けの間の時間によくあることだ。
ビヨルンがスウェーデンラジオP1のサマートークに参加した時、彼は自身の子供時代について言及しました。彼は自分が必要だったように見られたことはないかもしれない、自分の子供が孫に与えているような愛の認識は得られなかったと話しています。
Q.お父さんについて話してくれますか?
ビヨルン:私たちは仲良くありませんでした。
ビヨルンが0歳の頃、父Gunnarは西海岸のBovallstrandでボートヤードを経営していました。
ビヨルン:でもボートヤードの経営が傾いた。理由はわからないけれど、起業家向きではなかったんだろうね。彼にとっては大打撃だったと思う。放浪し始めて、あまり会うこともなくなった。
Q.どうして?
ビヨルン:父はしばらくの間、イェータ運河のボートでシェフをしていたんだ。姉と私と母は、父側のおばあちゃんと小さなアパートで暮らしていた。おばあちゃんは母のことが好きではなかったんだ。いい状況ではなかったね。当時いかに幸せじゃなかったかと思うよ。
そこでビヨルンの伯父が介入してくれます。伯父はVastervikで製紙工場を所有しており、弟である父に製紙工場での監督の仕事を与えてくれました。そして家族には十分なお金が入るようになり、自分たちだけで家を借りることができました。
ビヨルン:でも幸せな結婚ではなかった。父は、伯父も含め父側の家族みんなと同様に、よくお酒を飲んだ。よくケンカもしたし、父と母の間の不幸そうな言い争いもよく聞こえたよ。
Q.お母さんはどうですか?
ビヨルン:母はいつもとてもやさしかったし、あらゆる面で良い人だったよ。母が大好きだったけれど、父の前では母は無力だった。
子供の頃に満たされなかったビヨルンの要求は彼をボーイズバンドに完璧な人にしました。彼は音楽的な才能を父親から受け継ぎました。ビヨルンは10代の頃のクリスマスにギターを手に入れ、『フーテナニー・シンガーズ』というグループで成功したのです。1964年にグループで公園を回りツアーをしました。
ビヨルン:女の子たちから逃げなきゃならなかったのはあの時が初めてだったよ。すごく良かった。私は音楽のためと同じだけ、魅力のためやスターになるということのために、音楽に携わっていた。最初の夏の長いツアーはとても大きかったよ。
ベニーはライバルグループの『ヘップ・スターズ』で演奏していました。ビヨルンとベニーは1966年、ファルシェーピングの会場の外で出会いました。次に二人が会ったのは、作曲するときでした。
ビヨルン:私たちはどこにも行くところがなかったんだ。だから、ベニーのアンプと小さなオルガンを引きずって、私が両親と住んでいたアパートの地下室に行った。そこに座って演奏したんだ。
ビヨルン:私たちはどこにも行くところがなかったんだ。だから、ベニーのアンプと小さなオルガンを引きずって、私が両親と住んでいたアパートの地下室に行った。そこに座って演奏したんだ。
ビヨルン:父がやってきて、「うるさいと苦情が来ているから、やめろ」と言ったんだ。
それから父Gunnarはみんなを驚かせました。父は息子であるビヨルンと友人のベニーに自分の製紙工場のオフィスを使わせたのです。
ビヨルン:オフィスまでには長い階段があった。工場全体も見えた。そこに二人で座って、二人で作る初めての歌「Isn’t it easy to say」を作ったんだ。
(世界的有名なスウェーデンのABBAのメンバーはパンデミックのため、自身の持つ島に滞在し、隔離中です)。
Q.最初から、ビビっと来たんですか?
ビヨルン:ビっと来たかな。でもこんなことになるとは思いもしなかったよ。私たちが成し遂げたことはとても大きなことだよね。50年以上たった今でもそう思うよ。
Q.ベニーも隔離中ですか?
ビヨルン:そうだよ。
ABBAの頭文字Bである二人がお互いを見つけたのです。それからすぐ後に頭文字Aの二人が加わります。
ビヨルン:コンサートの行き帰りは車だったんだ。みんなでアグネタの初めての曲「I was so in love」を演奏していた。どうしてかわからないけど、私は「何だこの声は」って思ったんだ。恋に落ちたとは言わないけれど、彼女の声で、恋愛感情が含まれる感じで、感動したよ。
Q.どのようにあなたとアグネタは対面されたのですか?
ビヨルン:私はテレビ番組に出ていたんだ。彼女もね。確かスモーゲンだったかな?で、ベニーがストックホルムからそこまで車で連れて行ってくれたんだ。私は運転免許を取っていなかったんだよ。
もうそろそろスウェーデンの人たちに知られるようになる『ビヨルン&ベニー』の2人は番組が撮影されるホテルを見つけ、レストランへと入っていきました。
ビヨルン:彼女はそこに座っていたんだ。すきっぱでね。とても若かった。女の子らしくてね。少しするとすごく洗練されていったよ。
Q.すぐに恋に落ちたのですか?
ビヨルン:彼女がどうだったかはわからないけど、私はそうだね、すぐに恋に落ちたよ。間違いなく。
最終的にビヨルンはヨンショーピングへ行って、アグネタの両親に会うことになります。
ビヨルン:私たちは休みの時にキプロスへ行ったんだ。飛行機の中で、指輪を交換して、私の指輪は大きすぎたよ。だから、キプロスに着いてすぐ私は海に飛び込んだんだけど、海から上がった時には指輪はなくなっていたんだ。最悪だったよ。
ABBAはまだできていませんでしたが、ベニーとベニーの婚約者フリーダもそこにいました。2組のカップルは、他のゲストを楽しませるために、旅行会社から格安チケットを買いました。
ビヨルン:ギターがあったし、歌を歌ったよ。一緒にグループをするなんて考えることすらしなかったけどね。話題に上ることもなかったよ。ただ歌っただけさ。ポップを一緒にレコーディングするというアイディアを思いつくまで、少なくとも2~3年は、ただ会って、交流を深めただけだった。
「リング・リング」というアルバムは1973年にリリースされました。翌年、ABBAは「恋のウォータールー」でユーロヴィジョン・ソング・コンテストで優勝し、国際的な成功をおさめます。
奇妙なことにビヨルンは、すべての出来事がいつ、どこで、どのように起こったかは覚えているけれど、実際の経験としての記憶は全くありません。それはまるで、彼は星柄のギターを手に、ブライトンで厚底の靴を履いてステージ立ったことは一度もなかったかのようです。
ビヨルン:住んでいた家やその家で起こったことなんかの記憶の方がABBAの記憶よりはたくさんあるよ。ユーロヴィジョン・ソング・コンテストで優勝した後、家に帰った。私はリディンゲ島にアグネタと住んでいた。特に、ある朝のことをよく覚えているよ。
アグネタは眠っていた。私は起きて、下着のまま立ち上がったんだ。大きな鏡に映る自分を見て、思ったんだ。「ポップ界のアイドルなら、こんな姿はできない」とね。すごく太った。アグネタがキャベツプリンを作ってくれて、私は食べすぎた。ぽっちゃりだったと言えると思う。ユーロヴィジョン・ソング・コンテストの写真を見ればわかるよ。ズボンをはいたソーセージみたいだったよ。
若かったビヨルン・アグネタの二人に、ABBAの10年と、家族になるということが同時に始まりました。2人の間の第一子である娘Lindaが1973年に生まれました。同年、彼らのデビューアルバムがリリースされたのです。
1982年にグループが音楽活動を休止した時、Lindaは9歳で弟のChristianは5歳になったところでした。Lindaの最初の9年の間、ABBAは8枚のスタジオアルバムを作り、ヨーロッパやオーストラリア、北アメリカや日本でツアーをしました。
Q.どのようにされてたのですか?
ビヨルン:まあそんなに難しいことではなかったよ。今、振り返ってみれば、アグネタのことをよりよく理解できる。彼女はツアーに行ったり、プロモーションをしたりということを本当にしたくなかったんだ。子供たちを置いて行きたくなかったんだよ。私はツアーやプロモーションの方に傾いていたから、「まあでも1日2日でかけるだけだよ」と思っていた。
(庭師のおかげで庭は完璧な状態を保っています)。
北アメリカや日本でコンサートをするワールドツアー『ABBA – The Tour』は1979年の秋に初めて開催され、1980年が最後となりました。
ビヨルン:無理矢理だったんだ。フリーダは楽しんでいたと思うよ。たぶんベニーも。でも私はどっちつかずの中途半端な感じだったし、アグネタは本当にやりたくなかったんだ。まあ、ある種妥協のようなことだね。
ビヨルンによると、大きなワールドツアー以前のABBAは、ヨーロッパでテレビにしか出ていませんでした。
ビヨルン:アメリカを去る時、言われたんだ。「ツアーをしなきゃ。あらゆる街のあらゆるラジオ局を巡らないと」ってね。私たちは、アメリカは飛ばそうと言ったよ。意識的な選択だった。アメリカではトップ20に入る曲がたくさんあった。だからアメリカでツアーをすればもっとビッグになれたかもしれない。でも子供がいたからしなかったんだ。
そのような姿勢に、レコード会社のディレクターStikkan Andersonや他の人たちはいい顔をしませんでした。
ビヨルン:私たちがもっとツアーをしなかったので、彼らは怒ったよ。でも今日、今があるのはそのおかげさ。おかげで作曲やレコーディングに集中できたんだ。それはツアーよりずっと大切なことだよ。誰が70年代にツアーしていたバンドのことを覚えていると思う?今そんなことが大事?全くそんなことないだろう?
家族での生活を優先するという努力にもかかわらず、二人の愛は続きませんでした。1970年代の終わりには、ビヨルンとアグネタの結婚は終止符を打つことになります。ビヨルンによると、その決断は二人で決めたことだと言います。
ビヨルン:どちらか一人がすごく悲しい、というようなことではなかったよ。失敗だったし、悲しかった。でも、二人とも別れることが最良だとわかっていたんだ。成長して変わってしまった。若くして結婚すれば、よくあることだよ。
LindaとChristianに対しては、どちらの家にも自分の部屋があるようにして、自由に行き来できるようにしました。
ビヨルン:養育権は二人でシェアしようと思った。そして、子供たちが一緒にいたい方を選べばいいと思ったんだ。良くないことだと思うかもしれないけれど、子供たちが選んでいるようで、良いように思えたよ。今日はパパのところ。ということではなかったけどね。
ビヨルン:家は、1978年のクリスマスを一緒に過ごし、アグネタは隣にある新居へ引っ越しました。
ビヨルン:それから、大みそかの日には、ベニーとフリーダもリディンゲに住んでいたので、一緒にパーティーをしたよ。私は独身で、Lenaもそこにいたんだ。私は別の女の子と来ていたんだけど、彼女は負けたと思っただろうね。
2日後、ABBAはアメリカに行き、ビージーズやドナ・サマー、ロッド・スチュアートらのようにStar Studded Galaに参加しました。普段通り、ビヨルンはステージ以外で起こったことは鮮明に覚えています。
ビヨルン:私たちのツアープロモーターだったトーマス・ヨハンソンが私たちの部屋やスイートの代金を出してくれたよ。電話料金を見たとき、彼は信じられなかったんだ。だって私は部屋で寝転んでずっとLenaと話していたから、桁外れな値段だったからね。すごくロマンティックだったよ。
Lena夫人が昼食を準備しているVagaskarのヴィラのキッチンから食べ物の匂いがします。2人の間には成人した娘が二人、EmmaとAnnaがいて、孫もいます。
ビヨルン:私たちはすぐに恋に落ちたよ。独身だったのは一週間ですぐに恋に落ちたんだから不思議だよね。でも、何年後も今もずっと幸せに結婚生活を続けているのだから、正しい選択だったんだろうね。
Q.3年半も、その後ABBAを続けるのは、やりにくくなかったのですか?
ビヨルン:そうだね。それにベニーとフリーダもその後まもなく離婚した。でもそれは「ザ・ウィナー」や「スーパー・トゥルーパー」やたくさんの曲の前のことだ。プロとしてアーティストとしての観点からはすごく大切なものがあったと感じたよ。
ビヨルンは冷静な判断だったと説明します。
ビヨルン:私たちは自問自答したよ。「スタジオで協力し合えるかな」ってね。それから決めたんだ。「もちろんできるよ。野蛮な人間ではないし」ってね。だから私たちは続けたし、名作のいくつかはこの後にできているしね。
Q.お行儀よくし続けることができたんですか?
ビヨルン:今までと同じぐらいお行儀よく、いや、お行儀良くなかったかな。スタジオの中ではヒートアップしたよ。
自分たちで建てたABBAのレコーディングスタジオは、ストックホルムのSt Eriksgatanにあります。数多くある思い出の中で、ビヨルンの心を打つものがあります。
ビヨルン:離婚の直後だったよ。2人でミキシングテーブルのところに立っていたんだ。その前の晩に私は「ザ・ウィナー」の歌詞を書いて、アグネタが初めて、歌ってくれた。感情的になった。目がうつろになって、「これはすごい。これはうまくいく」と思った。そしてうまくいった。鳥肌が立ったのを覚えているよ。
Q.アリーナコンサートのすべてで一緒でしたね。
ビヨルン:たくさんの人がいて、それは行った都市どこもすべてほぼ同じだったよ。お互いから離れるのは難しかった。
シドニーでの一番初めのコンサートは例外でした。3日間ずっと雨でした。ニュージーランドで演奏していたロッド・スチュアートがビヨルンに電話をしてきて、「マネー、マネー、マネー」のメロディに合わせて「muddy, muddy, muddy」と歌いました。
ビヨルンは知り合いだったか覚えていませんが、ロッド・スチュアートのように世界的アーティストでエリートから誰かに電話があるということはたいしたことではありませんでした。
ビヨルン:自分もそういう人なんだと知っていたんだ。当初はそう感じていたけれど、私たちはスウェーデン出身の農家ではないし。私たちは同じレベルにいて、世界中のリストに載っているんだってわかっていた。
(1979年ロンドンのウェンブリーでコンサート中のABBA。その前にはオーストラリアにも行きました)。
何千人ものABBAファンがオーストラリアに到着するとき、空港で待っていました。ファンはシドニーまでの道を囲い、「ABBAがほしい!」という看板をかかげ、唱えました。そして市長がABBAを歓迎しました。
ビヨルン:ビートルズ以来、こんなことは起こらなかったよ。素晴らしいことだった。居留地みたいなところに滞在していたよ。騒動になるから、出ることもできなかった。
しかしそれから、雨が降り、やみませんでした。シドニーでのコンサート会場は屋外でした。観客には屋根がなかったので、ビヨルンはあまり人が来ないんじゃないかと心配していました。
ビヨルン:私がトレーラーから出たら、ぶ厚い板を敷いていてくれていて、泥(mud)の上でも歩いてステージまで行けるようにしてくれていた。不安だったよ。でも走って行くと、すごい人たちだった。
コンサート会場の写真を見ると、観客が3万人いて、傘の海ができていました。空から降ってくるのは、雨だけではありませんでした。じめじめした天気のせいで、カブトムシの幼虫がかえり、白く照らされているステージに磁石のように引き寄せられていました。
ビヨルン:カブトムシの雨だったよ。カブトムシが私たちの上に降ってきて、コンサート中ずっと降ってくるカブトムシを払ってよけなければならなかったんだ。
5年後にABBAが休止することになった時、オーストラリアは悲しみに包まれました。2000年に、彼らはもう一度ツアーをしてほしくて、10億ドルを申し出ました。でも断られたのです。より時間をとる計画だからというだけではなかったのです。
ビヨルン:カムバックしてみてもらうということは難しいことだよ。思ってたほどよくなかったなってなるからね。すごく長い間お休みをして、その後カムバックするときには、歳を取っているからね。私はそれが怖かったんだ。
そういう推測はありましたが、他のメンバーと折り合いがつかなかったということではない、とビヨルン話します。アバター計画を一緒にしているし、よくみんなで会うそうです。
ビヨルン:私たちの間には特別な絆があるんだ。分かると思うよ。1カ月ほど前、以前にも言ったように、「私たちの間にはお互いが100パーセント信頼できる、特別な何かがある」と話した。そういうものがあるということはステキなことだよ。
Q.以前がどうだったか覚えていますか?
ビヨルン:同じだよ。変わらず関係がある。
Q.秘訣は何ですか?
ビヨルン:私たちの曲は世界中で有名。どこにでも行ける。私たちの歌を知らない場所なんてない。変だよね。だってどうしてこうなったか、わからないんだから。本当にわからないんだ。歌もそうだし、気付いたらそうなってた。すごく素晴らしいことだ。それがまさしく私が「サンキュー・フォー・ザ・ミュージック」を書いた時の気持ちだよ。
*2018年4月27日、ABBAは「1983年以来、活動停止していた」と公表。
事実、1983年にはABBAとしての予定が入っており、最後のリリース「アンダー・アタックは」は北欧、日本では1983年にリリース。
1982年は最後のテレビ出演。