ABBAには5人メンバーがいた!?
ABBAは2組のカップルで構成されており、彼らの特徴であるディスコ・サウンドを生み出す上で大きな役割を果たした2人のソングライターがいました。ビヨルンとベニーは、ミュージカルやさらに壮大な曲を書くようになり、彼らの元妻であるアグネタとフリーダは、歌手として先頭に立って活躍したのである。これらが主要メンバーである一方で、実は「5人目」のメンバーがいたことを多くの人は知らない。
ABBAの直接のバンドのメンバーではないが、ABBAの5人目のメンバーといわれる人物がいて、その人物は当初はビヨルンとベニー共に歌も曲も作っていた。
「ダンシング・クイーン」「SOS」「恋のウォータールー」など、ABBAが世界的に有名になった大ヒット曲を生み出したのは、実はこの作家、スティッグ・アンダーソンがいたからこそだった。
スティッグは単なるソングライターではなく、実際にはABBAに対して大きな影響力を持っていた。
スティッグはABBAのレコード会社と出版社(ポーラー・ミュージック)を所有しており、ベニー、ビヨルン、そしてメインのサウンドエンジニアであるマイケル・B・トレトウと共同で所有していた。
心臓発作で66歳で亡くなった彼は、国際的なレーベルとのレコード契約を通じてバンドの商業的利益を代表し、それらを制作するレコード会社への莫大な投資を管理していた。
彼はグループのために多くの個人的なレコード契約を獲得することができ、その中には、石油のバレルと引き換えにレコードをリリースしたソビエト連邦でのレコードリリースも含まれていた。
しかし、悲しいことに、こうしたパートナーシップは永遠に続くものではなく、後年、ABBAのメンバーは資金の不適切な管理を理由にスティッグを訴えた。
1983年、ABBAが活動停止した頃、バンドは「ポーラー・ミュージック」とより高いロイヤリティの契約を交渉したが、何も契約されなかった。
6年後、国際的な音楽レーベルであるポリグラムがポーラー・ミュージック社を買収し、ABBAは高額な報酬が自分たちに支払われていないことを知った。
その結果、1990年にABBAの代理人が元レコード会社を相手に訴訟を起こした。
裁判では和解したものの、注目を集めたこの裁判は、ABBAのメンバーとの関係にも影響を与え、ほとんどの元同僚との関係も回復しなかったという。
スティッグの娘マリーは、このことを「テレグラフ」紙に次のように語っています。「スティッグが裁判を望んだのは、自分が正しく、ビヨルンとベニーが間違っていると信じていたからです」。
「そして、彼は人生で誰かを騙したことがなかったので、私は彼を信じています」。
「彼はとても悲しんでいました。ビヨルンとベニーは、どちらかというと彼の息子のような存在でした」。
「一緒にバカンスに行ったりしていました。彼らがナンバーワンのヒット曲を出すたびに、ストックホルムで一番のレストランに行ってお祝いしたものでした。その為、裁判があったときはとても悲しかっですよ」。
マリーによると、彼は500万クローネ(61万ポンド)の返済を迫られたという。
こうした困難にもかかわらず、彼らは生前のスティッツグを好意的に感じており、ベニーは1974年に「私に起こった最高の出来事は、スティッグと接触したことだ」と語っている。
「彼は、まっすぐな経済観念と秩序ある生活の大切さを教えてくれた」。
スティッグが賛否両論のメンバーであったとしても、メインの4人組は公式なグループであり、1983年に活動停止するまで信じられないほどのパフォーマンスを見せていた。
その後、バンドのメンバーはさまざまな場所で再結成されてきたが、スティッグはこれに参加することなく、1997年に亡くなったのである。
筆者は思う。もしスティッグ・アンダーソンがいなければABBAの成功はなかったと思う。仮にあっても欧州での小さな領域にとどまっていただろう。
事実、1974年4月6日「恋のウォータールー」でユーロヴィジョン・ソング・コンテストにABBAは優勝し、当時、ユーロヴィジョンの存在さえ知らなかった(スウェーデンがどこにあるのかも知らなかった)アメリカ人の間でもこの曲は大きな話題の曲になり、ビルボードでは6位にランクインしている。
その後、出す曲、出す曲「不発」で、たまたまスティッグがオーストラリアに送った「マンマ・ミーア」「アイ・ドゥ、アイ・ドゥ」「バング・ア・ブーメラン」「SOS」(のビデオクリップ)がオーストラリアの番組『カウントダウン』で放送されるや否や、一晩のうちに『ABBAフィーバー』が起こり、翌朝、オーストタリア中のレコード店でABBAのレコードは完売!急遽、「ABBAのレコードを早く、しかも大量にオーストラリアに送ってくれ!」との騒ぎが欧州に瞬く間に広まり、ABBAは逆輸入される形で、欧州でもヒットするようになっていった(この現象を通称『ABBAマニア』という)。
今では当たり前だが、当時では画期的な「ビデオクリップ」を海外テレビ局へ進展することがなければ、ABBAはあんなに早くメジャーになることはなかったであろう。スティッグがいてからこそ、起こった「奇跡」なのである。