「ABBAベスト25」。あなたはいかが思いますか?
*ちなみに発案したのは筆者ではありません。
ABBA、40年ぶりのニューアルバム『Voyage』がついにリリースされた。偉大なるポップグループの復活を記念して、誰もが口ずさめるヒット曲、隠れた名曲、ファンのお気に入りまで再検証。
ABBAブームが再びやってくる!?大ヒット映画『マンマ・ミーア!ヒア・ウィー・ゴー』では、シェールが「悲しきフェルナンド」を歌い上げた。もしくは、第1作目の『マンマ・ミーア!』で、メリル・ストリープとピアース・ブロスナンが「SOS」をデュエットしたシーンを思い出すかもしれない。70年代のラジオは、北欧スウェーデン出身のポップスターが席巻した。白いパンツスーツに厚底ブーツを履いたスカンジナビア版フリートウッド・マックとも言えるビヨルン・ウルヴァースとアグネタ・フォルツコグ、ベニー・アンダーソンとアンニ=フリード・リングスタッドの2組の夫婦が、別れや破滅をテーマにした曲を次々とヒットさせたのだ。 スウェーデンから世界のスターになった彼らの音楽は、きらびやかさの裏で怒りと絶望に満ちていた。ヒット曲は彼らの一部分でしかない。アルバムには、まだ多くの宝が眠っている。彼らの再結成とニューアルバムは、ABBAフリークですら想像し得なかった事態に違いない。北欧の神々に敬意を表しながら、ABBAの作品から厳選した25曲をランキング形式で振り返ろうと思う。よく知られたヒット曲だけでなく、荘厳な曲から笑える作品までさまざま。夜は始まったばかり、音楽は最高潮だ(Night is young and the music’s high)。
25位 「Super Trouper」(1980年)
前髪を垂らしたのがビヨルンで、髭をたくわえたのがベニー。ブルーネットがアンニ=フリードで、ブロンドがアグネタだ。ビヨルンとベニーが書き、アンニ=フリードとアグネタが歌の大部分を担当したヒット作。元々はビヨルンとアグネタ、ベニーとアンニ=フリードがそれぞれ夫婦だった。破局した2組が心の内をぶちまけた、涙を誘うメロディアスな楽曲。“ただ歌って食べて寝るだけの生活/これが最後のステージならいいのに”と歌う、ツアー続きの孤独な生活に疲れたディーバのバラードだ。しかしステージ上ではスターらしく振る舞い、ファンの前では痛みを見せられない。華麗な仮面の下には、中年期の悩みがあった。ABBAの全ての物語が詰まっている。
24位 「Disillusion」(1973年)
デビューアルバムに、“幻滅”などというタイトルの曲を収録するアーティストが他にいるだろうか? ABBAはどんなに陰気なグループだろう、と誰もが思ったに違いない。アグネタが作詞・作曲にクレジットされた最初で最後の楽曲。彼女はこの時すでに、将来訪れる失意の時を予感していたようだ。
23位 「Under Attack」(1982年、日本シングルリリースは1983年)
80年代に入り、ABBAは空中分解寸前で、音楽も明らかに減退していた。1982年の終わりにリリースされた本シングルは、彼らの最後の砦。ベスト盤『The Singles: The First Ten Years』向けに、ABBAの最後の作品としてレコーディングした。メンバーは、自分たちに次の10年はないと悟っていた。離婚を経験して売り上げも低迷する中で作られた楽曲。恋人の幻影に追い回される様子を、ヴォコーダーによる気味の悪いコーラスで表現した、幻影的で寒々しいシンセポップ。
22位 「Hole in Your Soul」(1977年)
シンセサイザーとギターが炸裂するプロト・インダストリアル・ミュージックで、“心の穴を埋めるロックンロール!”と繰り返すノリのよいコーラスが印象的。(あり得ないが)若きトレント・レズナーが参考にしていそうな曲。その名も『The Album』というアートロックのアルバム(1972年)に収録された隠れた名曲で、まるで『Pretty Hate Machine』(訳註:ナイン・インチ・ネイルズのデビューアルバム)ばりにゴリゴリのロックだ。
21位 「When I Kissed the Teacher」(1976年)
ABBAの作品には、疎外感(「Sitting in a Palmtree」)や苦悩(「Tropical Loveland」)、全人類滅亡に対する病的な恐怖(「Happy New Year」)に満ちている。ところが本曲では、スウェーデンの学校制度に挑戦。セクシーな幾何学の先生への想いを抑えきれない女子生徒の気持ちを歌った、無邪気なバブルガム・ミュージックだ。70年代とは奔放な時代だった。
20位 「Gimme! Gimme! Gimme! (A Man After Midnight) 」(1979年)
ABBAのナイトライフのダークサイド。不気味な電子音のストリングスが、ストックホルムにある営業時間外のバーでの卑猥な情景を思わせる。本作のデス・ディスコ・サウンドは、ザ・レザー・ナンをはじめとする80年代のヨーロッパのダンス・ミュージックに影響を与えた。「F.F.A.」で有名なレザー・ナンによる1986年のカバーバージョンは、怪しげなアンダーグラウンド・クラブ曲になった。また、マドンナは2006年の大ヒット曲「Hung Up」に本作のシンセのフックをサンプリングし、退廃的なオリジナルのノリを再現した。
19位 「Dum Dum Diddle」(1976年)
ABBAのお得意な三角関係をテーマにした曲。シャイな女の子がある男の子を好きになるが、彼は恋愛よりもバイオリンに夢中になっている(“あなたは寂しげ/でも笑顔になるのは/バイオリンを弾いている時だけ”)。彼女はバイオリンを押しのけて、彼のハートを掴めるだろうか。それとも“ダム・ダム・ディドル/あなたの愛しのフィドル”と歌い続けるしかないだろうか。ABBAの歌う傷つきやすい魅力は、70年代に青春時代を過ごしたカート・コバーンらを虜にした。カートが、ABBAのトリビュートバンドである「ビヨルン・アゲイン」を、ニルヴァーナのオープニング・アクトとして招いたのは有名な話だ。
18位 「One of Us」(1981年)
1977年、ABBAのマネージャーだったスティグ・アンダーソンがローリングストーン誌に明かしたところによると、彼はかつてスウェーデンの映画監督イングマール・ベルイマンに対して、なぜスウェーデンのポップ曲を自身の映画作品に採用しないのか尋ねた。「彼は何も答えなかった。しかし彼の次作のタイトルは、“沈黙”だった」という。残念ながらイングマールとアグネタのコラボレーションは実現しなかったものの、「One of Us」はABBA作品の中で最もベルイマン風のメロドラマだと言える。エイス・オブ・ベイスばりの明るいトロピカル・ビートに乗せた『ある結婚の風景』(ベルイマン監督のテレビ番組)のようだ。偶然ではないが、「One of Us」は2組のカップルの離婚後初のシングルだった。シェールは自分にとってパーフェクトな楽曲だとして、ABBAのカバーアルバムで本作を取り上げた。
17位 「King Kong Song」(邦題:キング・コングの歌、1974年)
ギターのパワーコードを駆使したグラムロック調の楽曲で、“キング・コングの曲を歌おう/あいつが打ち鳴らす音が聞こえるか”と歌う。英国チャートを席巻したスレイドやスウィートらの大ヒット作に通ずるものがあるが、ABBAは常にABBAらしいやり方を貫いた。“私たちが歌うのはファンキー風の曲”と歌う彼らは、“~風”(kinda)の定義をどこまでも拡げた。
16位 「Money, Money, Money」(1976年)
ビヨルンのキャリアは、スウェーデンの純フォークグループ「フーテナニー・シンガーズ」から始まった。「史上最悪のグループ名だ」とビヨルンはかつて語っている。しかし「酷い名前だったが、ABBAには負ける」と付け加えた。中央ヨーロッパのシュラーガー・ミュージックを思わせる「Money, Money, Money」は米国人にとって、新鮮でエキゾチックに聴こえたに違いない。ABBAはシュラーガー・スタイルで盛り上げつつも、虎視眈々と「リッチな世界」を狙う。ボルボに次ぐスウェーデンからの輸出額を誇るグループに、相応しいテーマだ。マンマ・ミーアの周辺では現金が全てを支配する。
15位 「The Day Before You Came」(1982年)
ザ・ビートルズの「I Me Mine」や、ザ・スミスの「I Keep Mine Hidden」に見られるように、大物ポップグループが最後にレコーディングする曲は、駄作になりがちだ。しかしABBAの場合は、ダークウェイヴの驚くべき傑作になった。アグネタが、スウェーデンのオフィスワーカーのありふれた日常を、分刻みで語る。主人公は、仕事から帰宅後にテレビ番組『ダラス』を見て、(マリリン・フレンチの最新刊など)フェミニストの小説を読むのが楽しみになっている。単調な生活が変わるかどうかは定かでない。良くなるのか、それとも悪くなるのか、先のことは誰にもわからない。本作を聴くと、デペッシュ・モードの『Violator』に収録された「Policy of Truth」や「World in My Eyes」が思い起こされる。アグネタは、スタジオの照明を落としてボーカルのレコーディングを行なったという。歌い終わると彼女は、そっと出ていく。パーフェクトだ。
14位 「Tiger」(1976年) A
BBAによるロックソングの傑作のひとつ。アグネタとアンニ=フリードが、自分たちの荒々しい性欲の強さを誇示する(「Rock Me」や「Bang-a-Boomerang」にも共通するものがある)。本作で2人は、“出会った男を/食べてやる/私はタイガー!”と、ストックホルムのコンクリートジャングルを徘徊しながら若い男を狙う凶暴な虎を演じる。ラストは、身の毛もよだつ叫び声で締め括られる。
13位 「Thank You for the Music」(1977年)
“私は特別ではない/実際に退屈な人間だし”という歌い出し。ABBAは最も純粋なラブソングに、自分たちの信条を集約した。決して自分たちを裏切らない、音楽に対する強い情熱をバラードに込めている。ラッシュの「The Spirit of Radio」と比較すると、全く相容れないように見える2つのグループに、興味深い共通点が見つかるだろう。ビヨルン、ベニー、アグネタ、アンニ=フリードはスウェーデン版ラッシュだったのか? 或いはゲディー、ニール、アレックスの方が、カナダ版ABBAなのかもしれない。
12位 「Fernando」(邦題:悲しきフェルナンド、1976年)
“フェルナンド、ドラムの音が聴こえるか?”と歌う本作は、ABBAのバラード曲の中で最もヒットした作品のひとつ。スウェーデンとメキシコの国境沿いのとある国で革命を戦う同志の物語を、星空の下のキャンプファイアーを囲んでギターをかき鳴らしながら歌う。映画『マンマ・ミーア!ヒア・ウィー・ゴー』では、アンディ・ガルシア演じるフェルナンドを前に、ルビー(シェール)が本作を歌い上げる。本作はABBAとしてレコーディングする以前に、アンニ=フリードが1975年のソロアルバムで歌った。同作では他に、ビーチ・ボーイズの「Wouldn’t It Be Nice」やデヴィッド・ボウイの「Life On Mars?」をスウェーデン語で歌っている。
11位 「Does Your Mother Know」(1979年)
ビヨルンがリードする本ヒット曲は、あるグルーピーを若すぎるという理由で拒絶する内容の、70年代のレア中のレアな作品だと言える。正に時代遅れだ(同時期には、ロッド・スチュワートの「Hot Legs」、フォリナーの「Hot Blooded」、ニック・ギルダーの「Hot Child in the City」をはじめ、“ホット”をタイトルに冠した、モラル的に受け入れ難い数多くのヒット曲があった)。スウェーデン各地の村には、「母親は君が外出していることを了解しているか?」とビヨルンに言わせたのは私よ、と言い張る60歳を超えたお婆さんが少なくとも1人ずついる。
10位 「Waterloo」(邦題:恋のウォータールー、1974年)
結成当初のABBAは、他のスウェーデンのグループと同様に将来が期待されていた。つまり、鳴かず飛ばずの4人組フォークグループだったのだ。しかし、あからさまなデヴィッド・ボウイへのトリビュートとも言える本作が、1974年にユーロビジョン・ソング・コンテストのスウェーデン代表になってからは、状況が一変する。本作で大会に優勝したABBAは同時に世界的な名声も得て、米国では初めてトップ10入りも果たした。当時はまだ英語で歌うことに慣れていなかった彼らだが、それがかえって魅力だった。米テレビ番組『サタデー・ナイト・ライブ』に出演した彼らは、口パクだったもののタイタニックのセットで本曲を披露した。
9位 「Take A Chance On Me」(1977年)
男女の声が複雑に絡み合う冒頭20秒間の絶妙なアカペラをよく聴こうとボリュームを上げすぎて、ステレオヘッドフォンを壊してしまった少年少女も多かっただろう。アグネタが“ねえ、もう許してくれる?”と囁きながら、セクシーに誘いをかける。本作には、細部に至るまで正確なABBAのテクニックが凝縮されている。1992年にはイレイジャーがアルバム『ABBA-esque』で、本作のブリリアントなバージョンを聴かせている。90年代におけるABBA最大のライバルの出現だった。
8位 「The Winner Takes It All」(邦題:ザ・ウィナー、1980年)
感動的なピアノに乗せてアグネタがソロで歌う、別れのバラード曲の傑作。映画『マンマ・ミーア!』の拍手喝采のシーンで流れる本曲は、映画『スティーヴとロブのグルメトリップ』の心を打つシーンにも登場する。2人の中年男が高速道路を走行中に、「The Winner~」を順番に歌いながら、叶わなかった少年時代の夢を思い返す。感動的なシーンにはABBAの曲が合う、ということだ。
7位 「The Visitors」(1981年)
ABBAは作品をリリースするごとに、より奇妙で、より不気味にニヒルさを増して行く。そして80年代に入ってついに、「ザ・ヴィジターズ」というシンセポップの隠れた名曲へと行き着いた。本作は冷たいピンク色をした6分間のエレクトロ曲。幽霊屋敷に閉じ込められた状況で(“この壁は、あらゆる屈辱の苦悶を目撃してきた”)、ロボットビートに乗せて“もうメチャメチャになりそう!”と繰り返す。大ヒットとはならず、映画のサウンドトラックに採用されることもなかったが、この曲はABBAが最後まで実験を続けていたことの証だと言える。
6位 「Hey, Hey Helen」(1975年)
離婚した子持ちの主婦を応援するグラムロック・アンセム。主婦層は、ABBAが登場するまで、ラジオを積極的に聴く視聴者層ではなかった。本作は70年代に盛り上がったフェミニズムをテーマにした、初期のポップソングのひとつだった(“あなたが払った代償は/今どきの女性になるためのもの”)。ベルボトムを履いたアンニ=フリードとアグネタが、新たな冒険に出るヘレンに声援を送る。ABBAのロックのパワーは決して侮ってはいけない。キッスが「Calling Dr. Love」に流用するほど、本作のギターリフはヘヴィなのだ(ビヨルンとベニーによるフェミニズムを前面に押し出した楽曲を、ジーン・シモンズが借用した。つまりジーンはABBAの熱烈なファンで、彼も趣味が良いということだろう)。本作が映画『マンマ・ミーア!』から外れていたのは驚きだが、続編にも含まれなかったABBAの作品の中で、間違いなく最高の楽曲だと言える。シェール、メリル(・ストリープ)、(クリスティーン・)バランスキーが総出演する『マンマ・ミーア3:ターン・バック・タイム』で、本作が流れることを祈ろう。
5位 「Mamma Mia」(1975年)
ビヨルンとベニーは、シロフォン使いの天才だ。本曲では彼らの才能が十分に発揮され、さまざまな音がひとつの曲に詰め込まれている。苦しいが止められない恋の悩みを歌った3分半の「マンマ・ミーア」は当初、米国やヨーロッパでは受け入れられず、トップ40に入るのがやっとだった。サウンドが明るすぎたようだ。ところが今や、ABBAの伝説の中心に位置する曲になっているから驚きだ。当時にしてはアバンギャルドなポップ曲だったのは、間違いない。デヴィッド・ボウイの『Low』や『Heroes』を聴いてみて欲しい。シン・ホワイト・デュークも、頭の中で「Mamma Mia」が流れ続けて離れないファンの一人だったことがわかるだろう。
4位 「SOS」(1975年)
ジョイ・ディヴィジョンや初期ザ・キュアーの曲を聴いてから本作を流してみると、ABBAがいかに“ゴス”的だったがわかる。哀愁を帯びたピアノの旋律からシンセサイザーが加わって過剰なまでの盛り上がりを見せる「SOS」は、後のニューウェイヴやポストパンクのアーティストたちに大きな影響を与えた、煌びやかな北欧のメランコリーを表現している(トリビア:ヒットチャート入りした曲名とアーティスト名の両方が回文になっているのは、SOS/ABBAが唯一の事例。)「ABBAは、中高年の抱える問題を曲のテーマに取り上げた最初の国際的バンドだろう」と、おそらくABBAファンではないピート・タウンゼントが、ローリングストーン誌のカバーストーリー(1982年)で語っている。「米国にいる時にラジオで『SOS』を聴いた。後からアーティストがABBAだと知ったが、その時は既にこの曲に魅了されていた」と彼は告白した。
3位 「The Name Of The Game」(邦題:きらめきの序曲、1977年)
あらゆることに挑戦してきたABBAは、『The Album』という地味なタイトルでプログレッシヴの大作を手がけている。結果、フリューゲルホルンと教会オルガンに、「ドゥー、ドゥー・ドゥー」と囁くようなコーラスをフィーチャーした叙事詩が生まれた。ただし内容的には、シャイな女の子が少しだけ勇気を出して気取ってみるという、よくある話だ。「恥ずかしがり屋の子ども」が2度会っただけの相手に片想いして思い悩むという、テイラー・スウィフト的な歌詞の原型がここにある。“私は知りたい/もちろん知りたい!/この駆け引きが何なのか!”と歌うABBAの率直さは、女性たちの共感を呼んだ。
2位 「Knowing Me, Knowing You」(1976年)
ABBAと言えば、タイトなライクラのパンツスーツと悲劇的な失恋の組み合わせだ。キャロル・キングの『Tapestry』やフリートウッド・マックの『Rumours』のように、70年代のABBAもまた、破綻した結婚生活の上にハーモニーを重ねて覆い隠した。アグネタとアンニ=フリードは、思い出の詰まったがらんとした家の中を歩きながら、子どもたちの遊んだ部屋にさようならを告げる。静かに始まる「Knowing Me, Knowing You」は、心の痛むメロドラマへと展開する。最後は「ああ、そうね」と半分あきらめながら納得するのだが。クライマックスは、曲の始まりから3分後に訪れる。女性がもう一度、これまで住んだ家を振り返るものの、気が変わる前に急いで立ち去るのだ。
1位 「Dancing Queen」(1976年)
バンドの最も有名な曲が、本人たちのベストソングになることだってある。ポップスターの中のポップスターだったABBAは、誰にでも受け入れられる音楽を作っていた。だから、彼らが最も輝いた瞬間と彼らが広く愛されていた時期が重なるのは、詩的な意味でも納得がいく。「Dancing Queen」は、心の中でディスコの女王を夢見る女の子たちのアンセムとなった。周囲から見れば、ダンスフロアにたたずむシャイな少女でしかないのだが。 アグネタとアンニ=フリードが「タムバリーン…オー、イエーイ」と、喜びを爆発させる(この2人ほど“タンバリン”というフレーズを心地よく歌える者はいないだろう)。オープニングのピアノのグリッサンドから、誰でもフェロモン全開になるだろう。女の子が主役で、男の子はただの使い捨ての小道具でしかないダンスフロアでは、(1)ダンスする、(2)ジャイブする、(3)最高に楽しく過ごす、の意味を誰もが知っている(“誰でもキングになれる”とは、ABBAらしいフレーズだ)。あの娘を見て、あんなふうに踊ればいい、あなたもダンシング・クイーンになれる。