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3月29日はABBAが初めてレコーディングした日です!

今日3月29日は『ABBAが初めてレコーディングした日』です。

今でこそ“世界第4位”のレコード・CDを売り上げているABBAですが、その起点は今日3月29日から始まりました。 すべては1966年の夏、ビヨルン・ウルヴァース(ABBAのベース)とベニー・アンダーソン(ABBAのキーボード)の偶然な出会いから始まりました。ビヨルンはフォーク・グループ『フーテナニー・シンガーズ』のリーダーであり、一方のベニーはロックグループ『ザ・ヘップ・スターズ』(スウェーデンの“ビートルズ”と言われれいました)メンバーでした。両バンドとも当時のスウェーデンのトップを争う人気でグループでした。

この最初の出会いから友情が育ち、後の共同の歌作りへとつながっていきます。ビヨルンがリーダーを務めていた『フーテナニー・シンガーズ』のレコードはのちのABBAのマネージャー、スティッグ・アンダーソン所有のポーラー・ミュージックレーベルからリリースされていました。スティッグはビヨルンとベニーのソングライターとしての才能に注目しており、彼らがスウェーデンの音楽の世界進出という自分の夢を実現してくれるとの期待をかけていました。この実現には彼らはまたとない人材でした。
同じ頃、ベニーはフリーダ(ABBAのヴォーカル、メゾソプラノ)として知られているアンニ・フリード・リングスタッドと出会い恋に落ちました。そして、ビヨルンとアグネタ・フォルツコグ(ABBAのヴォーカル、裏声なしで4オクターブ出るソプラノ)の間にもロマンスが花開きました。この2人の女性はダンスバンドの歌手としてソロのキャリアを積んでいました。フリーダは“スウェーデン史上TOPのジャズシンガー”、アグネタは安室奈美恵的な“スウェーデンのポップスミュージシャン”でした。

1970年春、2組のカップルは婚約しました。その年の後半、4人はレコードおよびステージの両面を共同で仕事をするようになりましたた。フリーダとアグネタは男性2人の曲「ヘイ・ギャレム・マン」のバック・ヴォーカルを務めました。この曲はスウェーデンでヒットしました。
4人はキャバレーでも活動を行ないましがかなり悲惨な結果に終わりました。しかし、幸運なことに、その失敗もそれぞれのロマンチックな関係で乗り切ることが出来、1971年7月にビヨルンとアグネタは結婚しました。

1972年春、4人組での最初のアルバム制作までの一連の出来事が始まりました。その数年前、ビヨルンとベニー『The Seduction Of Inga』と題した、いくらか怪しげな映画のために曲をレコーディングしました。映画の中の曲の1つ「木枯らしの少女」がシングル・リリースされました。デュオ名は単にビヨルン&ベニーでした。

その2年後、日本のレコード会社が彼らの歌をキャッチし、日本でヒットすると予想しました。いくらか東洋的で憂うつなメロディを持つこの「木枯らしの少女」は日本でリリースされ第一位のヒットを記録しました(50万枚売り上げ、日本のみの出来事)。

この成功は、ビヨルンとベニーにとって、より多くのポップソングを英語で書くことへの励みとなりました。さらに、彼らはアグネタやフリーダとレコーディングした結果、この女性2人の方が歌手として優れていることに気づきました。
1972年3月29日、この2組のカップルは「ピープル・ニード・ラヴ」(愛、それは一番大切なもの)のレコーディングを行ないました。これはまさしく“ABBAとしての最初の曲”となりました。6月のリリースの時点で、グループは正式名を持っておらず“ビヨルン& ベニー、アグネタ& アンニ・フリード”と呼ばれていました。

「ピープル・ニード・ラヴ」はたちまちヒットし、スウェーデンのアルバムおよびシングルの合算チャートで第17位を記録しました。

アグネタとフリーダは前述通り、当時ソロ・アーティストとして他のレコード会社においてレコーディングを続けていました。そのため、当初のABBAは正式なグループとして結成する話は出ていなかっのです。しかし、ビヨルンとベニーはスティッグ・アンダーソンと共にグループとしてのアルバムのレコーディングを決定し、成功への可能性を探ることにしました。
つまり1972年時点ではABBAは単なるレコード会社が違う“プロの4人”の遊び的、実験的グループであり、ABBAがABBAとして、本格的にスタートするのにはまだ時間がかかりました。スウェーデン国民も「フォークシンガーのビヨルンと、ロックグループのベニーと、ジャズシンガーのフリーダと、ポップス界の歌姫アグネタが、遊び目的でレコーディングした」としか思っておりませんでした。

その一年後の1973年、4人でアルバム『リング・リング』をリリースしました。この記念すべきアルバムは発売時にはまだABBAという名称ではなく、単に4人名前が付けられて発表されたアルバムでしたが、ABBAのメンバー4人で歌い、演奏したことは間違いないので『ABBA最初のアルバム』とされています。この頃、前述した通り、別々のグループで活躍していたビヨルンとベニーの友情が深まり、二人はグループを脱退し、新たに『ビヨルン&ベニー』として活動しており、お互いポーラー・ミュージックの社員として他のミュージシャンのプロデュースをしていました。アグネタは“スウェーデンの歌姫”としてソロで活動を続けていましたが、71年にビヨルンと結婚し、『ビヨルン&ベニー』にバック・コーラスとして参加したり、自分の歌をビヨルンにプロデュースしてもらうなど、お互いがお互いを助け合う関係になっていました。フリーダはベニーと婚約こそすれ結婚には至っていませんでしたが、スウェーデンを代表するJAZZシンガーとして、歌唱力は北欧NO1と言われていました。フリーダもアグネタ同様に『ビヨルン&ベニー』のバック・コーラスとして参加したり、また、ベニーに自分の歌をプロデュースしてもらうなど、これまた相互関係は充実していました。

この4人が一緒に歌うことになったのは4人がバカンスでマヨルカ島にて過ごしていた時。たまたまビヨルンがアグネタとフリーダに「二人で歌ってみなよ」と提案してみたところ、何と言う素晴らしいハーモニー、そして安寧、心地よさ。男性二人のデュオにアグネタ・フリーダを加えることになったのです。『ビヨルン&ベニー』のプロジェクトにアグネタとフリーダがバック・コーラスではなく、正式に参加して、4人で協力してアルバムを作って行くことになったのです。その記念すべき“デビュー曲”が「愛、それは一番大切なもの(ピープル・ニード・ラヴ)」でした。「愛、それは一番大切なもの」は1972年5月に記念すべき4人のファースト・シングルとして発売されました(この時、B面に入ったのは「メリー・ゴー・ラウンド」で「愛、それは一番大切なもの」と同時日にレコーディングされました)。このファースト・シングルのクレジットは前述した通り4人の名前を並べただけのものでした(ビヨルン&ベニー、アグネタ&アンニ=フリード)。スウェーデン国内のヒット・チャートでは17位が最高位でしたが、リスナーは「へえ、あの4人が一緒に歌っているのね」としか思っていなかったのです。単なるお遊び?偶然?永遠に続くグループとはリスナーは誰一人として思っていなかったようです。17位と言う記録に当人達には「まあまあだったね」という感触。ちなみにここで言うチャートとは当時、アルバムとシングルの合計数で計算していたので、そう考えるとイマイチだったのかもしれません。しかもアグネタ・フリーダの〝ツイン・ヴォーカル“と言った形は後に出来あがるモノで、この曲では男女の掛け合いで出来あがったものでした。「4人で歌う」と言う約束が忠実に守られた作品だったわけです。

その後、4人は本格的に世界に進出したいと思うようになり、1974年4月6日「恋のウォータールー」で『ユーロヴィジョン・ソング・コンテスト』で優勝!ここから怒涛のごとく活動し始め、“地球の屋根”と言われていたスウェーデンからABBAは世界中に自分たちの曲を披露することになったのです。




1977年には「ダンシング・クイーン」が日本、アメリカを含む13か国でNO1を記録し、1983年の活動停止までに、100曲以上の曲をリリース。一昨年「新曲」を出すことを発表し、今年の秋には新曲のお披露目があるものと筆者は信じております。


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