1984年9月28日、アルバムの最後のミキシング作業が完了した。優に3枚組を作れる量の音楽が録音されたが、売価が高すぎると市場価値がなくなると判断され、2枚組での発売に決まった。
皮肉なことに、時はCDフォーマット普及の前夜だった。 CDなら、録音された素材をそっくり2枚に収められただろう。CDの登場は、その2年前(世界最初のCDはABBAの最後のオリジナル・アルバム『ザ・ビジターズ』)だったが~実のところ、『CHESS』は2枚組のLPとほぼ同時にCDでも発売された~残念ながら、当時はまだビニールのレコードの方が主流だったのだ。そのためアルバム1枚分のオリジナル録音が、いまも日の目を見ずに眠っている。
だがアルバムに使われなかった歌やインストルメンタル曲が、いくつかは舞台上演とコンサート形式の上演に生かされた。もっとも、「Der Kleine Franz (少年フランツ)」「インタビュー(記者会見)」といった未発表曲のタイトルから判断すると、『CHESS』のスコアから削られたのは到底ヒットシングルになりそうもない曲ばかりだったようである。
録音完了と同時にコンサート形式の公演『CHESS IN CONCERT』の準備が始まった。アルバム発売に合わせたお披露目の企画である。ロンドン交響楽団をはじめ出演者は250人以上にのぼり、経費が莫大なだめスポンサーが欠かせなかった。
コンサートは1984年10月27日、ロンドンの『バービカン・センター』で開幕した。続いてパリ、アムステルダム、ハンブルクを巡演し、11月1日、ストックホルムのベルヴァルド・ホールで幕を降ろした。
コンサートは順調に進んだが、以後のストックホルム公演でちょっとしたアクシデントが起き、バック・コーラスの歌手カーリン・グレンマルクは、そのおかけで世間に注目されるチャンスをつかんだ。スベトラーナの役は各地でガーリンが歌ってきたが、ストックホルムではアルバム録音で同役を務めたバーバラ・ディクソンが歌うことになっていた。ストックホルムのコンサートはテレビ放映用に録画されるので、特別の晴れ舞台だったのだ。
しかしコンサートの終盤になって、バーバラは「エンドゲーム」という曲の高音部を出せないと感じ、ガーリンに代わってもらおうと考えた。バック・コーラスの一員として舞台になっていたガーリンは、すぐに事態を悟った「最初は、バーバラが少し遅れて出てくるのかと思ったわ」。ガーリンは言う。「でも、オーケストラがヴォーカルの最初のメロディを演奏し終えても現れなかったから、彼女は出てこないつもりなんだとわかった。そこで丸1曲、自分の肩に責任がかかっていると悟ったの」。ガーリンは歌い始めた。アンデシュ・エリアスによると、「トミーと彼女は、20メートル離れてデュエットする羽目になった」。そして最後のコンサートのヒロインが誕生した。
この小さなアクシデントを除くと、コンサートツアーは成功裡に終わり、ティム・ライスの言葉を借りるなら「荷物はほとんど、インスピレーションはまったくなくならなかった」ツアーたった。関係者たちはまた、アルバムからも喜びを与えられた。 10月29日に発売されたアルバムが、一様に絶賛されたのである。
「僕に言わせると、あのときがビヨルンとベニーのキャリアの頂点たった。あんなにいい音楽は、それまで聴いたことがなかったと思う」。マイケル・トレトウが言う。「制作には永遠に等しい時問がかかった。だが作業が終わったときも、僕はまだ飽きていなかった。そんなこと、以前は一度もなかったね。僕は長年、大量の音楽を聴いては大量に飽きていた。だが、この曲はあまりに先進的で、僕みたいな凡人は飽きるなんてことがないんだ。いま聴いても、当時のままに楽しめる」。
アルバム『CHESS』はスウェーデンのチャートで7週間1位を占め、イギリスでもトップ10に入った。アルバムからのシングルカットは2曲が大ヒットし、その1曲、エレイン・ペイジとバーバラ・ディクソンがデュエットする「アイ・ノウ・ヒム・ソウ・ウエル」はイギリスのチャートで4週連続1位になった。一説には、イギリスで発売されたABBAのどのシングルよりも売れたという。他の1曲、マリー・ヘッドの「ワン・ナイト・イン・バンコク」は『CHESS』の全ナンバー中、飛び抜けて大きな世界的ヒットとなり、アメリカのチャートで3位まで上昇した。ビョルン=ベニー・コンビの作品では、ABBA時代のヒット曲を含めて、もっとも売れたシングルと言われる。
2枚組のコンセプトアルバムは、全世界で200万枚の売上げを記録した。ミュージカルのアルバムでは異例の数字である。初めての相手と組んでこれはどの結果が出れば、ティム・ライスが喜ぶのも当然だろう。
「音楽劇を書くのとホップアルバムの曲を書くのは、難しいのは同じでも内容はまったく違う。 50年代から今日までのロック時代を通じて、両方で成功したミュージシャンを僕はほかに知らない。ホップアルバムの名手に、音楽劇は書けない。ソンドハイムやアンドリュー(ロイド=ウェバー)のような音楽劇の人家も、ABBAのアルバムを書くのは無理だろう。ベニーとビヨルンだけが、両方できるようだ」。
『CHESS』は曲と歌詞の水準の高さで成功作と証明された。次は、舞台に掛けても効果的と証明することだ。当初、舞台初演は1985年秋を目指したが、ロンドンの適当な劇場は軒並みヒット作のロングランでふさがっていたので、一時はブロードウェイで初演する話も持ち上がった。
1985年4月、『コーラスライン』や『ドリームガールズ』の演出で知られるマイケル・ベネットが『CHESS』を演出すると発表された。だがビヨルンとベニー、ティムは、そのころにはやはりロンドンで上演する心づもりになっていた。そのためベネットや、舞台制作を引き受けたシューハート・オーガニゼーションのバーニー・ジェイコブズと意見の対立を生じた。
ジェイコブズとベネットは、ブロードウェイでの初演を主張した。「まったく同意できなかった」ティム・ライスがのちに語っている。「ブロードウェイの経済論理はロンドンよりもさらに極端なんだ。しかもニューヨークの演劇界は、不健全な状況にある。新聞の批評家たち、いわゆる“ブッチャー(殺し屋)”が強大な力を振るって、大衆が自分の目で判断する前にショーを抹殺してしまう」。
こうして初演の場所はロンドンと決まり、ほどなく開幕日も1986年5月14日に設定された。延べ1300人が受けたオーディションの第1 回が85年秋、ロンドンのプリンス・オブ・ウェールズ劇場とリリック劇場で行われた。そのとき決まったキャストはフローレンス役のエレイン・ベイジただ1人で、ミュージカルを舞台で演じる前にアルバム録音に参加したのは初めてだったと彼女は語っている「でも、レコードになかった曲が新たにたくさん追加されたので、すべてがリフレッシュされた感じだったわ。ほとんど新しい出し物に取り組むみたいだった」。
トミー・シェルベリとマリー・ヘッドがレコードで歌った役に、作詞作曲の3人と演出者はほかの俳優を使うことも検討してみた。だが本心では、主役の3人はステージでもアルバムと同一のキャストで演じることが望ましく、特にマリー・ヘッドは掛け替えがなかった。
しかしトミー・シェルペリはイギリス市民ではないので、就労許可の取得に困難が予想された。ユニオンもイギリス人俳優の起用を要求し、シェルベリの採用には難色を示した。
ただしユニオンが要求を通すには、シェルペリに劣らず役にふさわしい候補者がいると証明しなければならなかった。「これまでオーディションを受けた連中は、みんなトミーに遠く及ばなかった。僕は楽観視してるよ」。ベニーは言った。 トミー・シェルペリが唯一の現実的選択ど衆目一致で認められるまでに、長くはかからなかった。
続く