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劇団四季 マンマ・ミーア! WATERLOO RADIO

ピンク・フロイドは僕たちの楽器を借りなければショーができなかった。

5,000以上の録音作品を誇るギターヴァーチュオーゾ——あなたが知らない、最も聴かれたギタリストかもしれない。

ABBAの主要セッションミュージシャンの一人として、彼は世界中で数百万枚のレコード販売に貢献してきた。彼のギター演奏は、スウェーデンの70年代ポップスーパースターたちの代表曲「恋のウォータールー」「マンマ・ミーア」、そして全米1位となった「ダンシング・クイーン」などで聴くことができる。

*スウェーデンのギタリスト、ヤンネ・シャッファーが1984年にローランド G-707 ギターシンセサイザーコントローラーを演奏する(画像提供: Jan Persson/Getty Images)。

しかし、ヤンネ・シャッファー(Janne Schaffer)の経歴は、その有名な4人組との仕事にとどまらない。スウェーデンでは、彼はアメリカのセッション・マスター、スティーヴ・ルカサーに匹敵するスタジオ界の巨匠と見なされている。これまでに、シャッファーは5,000曲以上のレコーディングにギタリストとして参加してきた。

「それには僕自身の488曲の作品も含まれているよ」と彼はGuitar Player誌に語る。「70年代には本当にたくさんのレコーディングに参加した。たとえば、リー・ヘイゼルウッドとナンシー・シナトラの『Indian Summer』、アンドレアス・フォーレンヴァイダーやジョニー・ナッシュの録音など、数え切れないほどね。今でも他のアーティストと一緒にレコーディングを続けているよ」。

クラシック音楽の家庭から、ロックギターの道へ

シャッファーは音楽一家に生まれたが、家で流れていたのはクラシック音楽ばかりで、彼の好みではなかった。彼は最初アコースティックギターを弾いていたが、ラジオでエルヴィス・プレスリーの「Heartbreak Hotel」を聴いたことがきっかけでエレキギターに転向した。

若い頃は、地元スウェーデンの様々なバンドで腕を磨いた。彼のバンドが出演したあるテレビ番組では、アメリカのバンド「ザ・バーズ」や、当時新進気鋭だったジミ・ヘンドリックスと共演する予定だった。

また、彼にとって忘れられないライブの一つが、ストックホルムで自身のバンドがヘッドライナーを務めた際の出来事だった。なんと、その時のサポートアクトは、イギリスの若いバンドだった。

「1967年9月、僕はSleepstonesというバンドで演奏していたんだ。そしてサポートアクトとして出演したのが、デビューアルバムを出したばかりのイギリスのバンドだった。
そのバンドの名前はピンク・フロイド。しかも彼らは僕たちの楽器を全部借りないと、演奏すらできなかったんだ!」。

*シャッファーが1974年にギブソン・レスポールを演奏する(画像提供: ヤンネ・シャッファー本人)。

ボブ・マーリーが一緒に暮らした日々

ジョニー・ナッシュとストックホルムで演奏していた時のこと。シャッファーとナッシュは、あるジャマイカのミュージシャンに滞在場所を提供した。そのミュージシャンは映画『Want So Much to Believe(1971年公開)』のサウンドトラックに参加するためにストックホルムに来ていた。

その人物こそがボブ・マーリーだった。そしてマーリーは、彼らと過ごしていた間に、後に彼のブレイクスルー作品となる『Catch a Fire』(1973年)の大部分を書き上げた。

ABBAとの出会いとスタジオミュージシャンとしての成功

その後、シャッファーはスタジオミュージシャンとしてのキャリアを歩み始めた。彼が最初に参加したレコーディングは、スウェーデンのシンガービョルン・J:son・リンドの作品だった。

「それが僕の最初のレコーディングセッションだった。そしてその仕事をきっかけに、ストックホルムで録音されるあらゆるレコードで演奏するようになったんだ」。

その中には、まだ「ABBA」として正式に活動を始める前のビヨルン、ベニー、フリーダ、アグネタが関わる楽曲も含まれていた。

「僕は当時、若手シンガーソングライターのテッド・ゲーデスタードとレコーディングをしていたんだ。そのセッションのプロデューサーがビヨルンとベニーだった。
そこからの繋がりで、1972年に『ピープル・ニード・ラヴ』のレコーディングに参加することになった。それがABBAの“最初の本格的な曲”だったんだ。そして、それがきっかけでABBAのレコーディングに継続的に参加することになった」。

ソロ活動とABBAを超えた成功

同時期に、シャッファーはスタジオワークと並行してソロアーティストとしても活動を開始した。彼のソロデビューアルバム『Janne Schaffer』(1973年)は、インストゥルメンタルのギターアルバムでありながら、圧巻のギタープレイを披露。スウェーデンでゴールドディスクを獲得し、6週間連続でチャート1位を記録した。このアルバムは、同年に発売されたABBAのデビューアルバム『リング・リング』の売上を超えた。

さらに、続く『Janne Schaffer’s Andra LP(ヤンネ・シャッファーのセカンドアルバム)』もスウェーデンで1位を獲得し、彼は国民的なギターヒーローとなった。

「ホットなジャズ・フュージョン・ギタリスト」としての名声がアメリカへ

CBSとの3枚契約、モントルー・ジャズ・フェス、ハリウッド録音、そしてTOTOとの出会い。

やがて、ヤンネ・シャッファーの「ジャズ・フュージョンの凄腕ギタリスト」としての評判はアメリカのコロムビア・レコード(CBS)の耳にも届き、3枚のアルバム契約を結ぶこととなった。

「僕は1975年にCBSと契約し、3枚目のアルバム『Katharsis』をレコーディングしたんだ」とシャッファーは語る。
「最初はスウェーデンでリリースされ、その後アメリカでも発売された。そして、ローリング・ストーン誌で素晴らしいレビューをもらったんだ。それを受けて、アメリカのレコード会社の人たちがストックホルムの僕のコンサートを観に来た。

その後、彼らから電話があって『コンサートが良かった。ハリウッドでレコーディングしないか?』と言われたんだ。もちろん、僕は『やるよ!』と即答したよ。

彼らは僕がABBAのセッションミュージシャンだということも知っていたけど、当時のアメリカでは1975年の時点ではABBAはまだあまり知られていなかった。だからCBSは僕の名前をもっと広めるための企画を考えたんだ」。

その結果、スイスのモントルーで開催されたCBSジャズ・オールスターズのTV番組に出演することとなる。3,000人の観客を前にした歴史的なライブであり、伝説的なドラマービリー・コブハムやサックス奏者スタン・ゲッツといったジャズの巨匠たちと共演した。

*ABBAが1974年、イギリスのTV番組『Top of the Pops』でブレイクのきっかけとなったヒット曲「恋のウォータールー」を披露する。シャッファーはこの曲のギターを演奏しており、スウェーデンのグループによる他の多くの録音にも参加している(画像提供: David Redfern/Redferns)。

ハリウッド録音、TOTOとのコラボ、そして「Hold the Line」の誕生

ハリウッドに降り立ったシャッファーは、1979年のアルバム『Earmeal』の制作に取り掛かる。このアルバムでは、結成間もないTOTOのメンバーたちと共演することになった。

「CBSからの提案で、ドアーズのプロデューサーとしても知られるブルース・ボトニックをプロデューサーに迎えることになったんだ」とシャッファーは振り返る。
「さらに、オールマン・ブラザーズ・バンドやスティーヴ・ミラー・バンド、ボズ・スキャッグスのギタリストだったレス・デュデックが、ドラマーとしてジェフ・ポーカロを推薦してくれた」。

「そしてジェフが『だったらベースは弟のマイク・ポーカロがいい』と提案し、さらにパーカッションが必要になった時には『だったら僕の父親(ジョー・ポーカロ)がいい』という話になった」。

こうして、このアルバムはTOTOのポーカロ一家(ジェフ、マイク、スティーヴ、そして父ジョー)が一堂に会した、極めて珍しい作品となった。

ある日、ジェフ・ポーカロがこんな話を持ちかけてきた。

「レコーディングの最中に、ジェフが『今、バンドを始めたばかりなんだ。ちょうど録音した曲があるから聴いてみる?』と言ってきたんだ。
それで彼のスタジオに行って、その曲を聴いた。当時はまだボーカルが入っていなかったけどね」。

その曲こそが、TOTOのデビューシングルであり、後に世界的な大ヒットとなる「Hold the Line」だった。

アルバム『Earmeal』のレコーディングが終わると、シャッファーはストックホルムに帰国。しかし、CBSの関係者から再び連絡が入る。

「彼らは『とても良いアルバムになったけど、ヒットシングルになりそうな曲が必要だ』と言ってきた。
それで僕は『Happy Feet』という曲を書いた。この曲ではポーカロ一家のメンバー全員が演奏していて、スティーヴ・ポーカロもキーボードを弾いているよ」。

この曲は、約45年後の2024年に公開された映画『Bad Apples』(サンダンス映画祭でプレミア上映)で使用された。

アメリカ市場への挑戦とその後

シャッファーのアメリカ市場向けジャズ・フュージョン3部作の最後の作品となったのは、1980年のアルバム『Presens』だった。この作品は、より商業的なサウンドへとシフトしていた。しかし、当時の音楽シーンではニューウェーブシンセポップが台頭していたため、前作ほどの成功は収められず、CBSは本作をヨーロッパのみでリリースすることを決定した。

その後、シャッファーはCBSを離れたが、ソロアルバムのリリースは継続。そして1989年にはアルバム『Electric Graffiti』スウェーデン・グラミー賞(年間最優秀インストゥルメンタル作品賞)を受賞した。

現在のシャッファー。
彼はスタジオやライブでの演奏を続け、多忙な日々を送っている。また、彼の楽曲は新しい世代のリスナーによって再発見されている(画像提供: ヤンネ・シャッファー本人)。

現在も続く音楽活動、そしてアグネタ・フォルツコグとの再会

現在、シャッファーはツアーを続けながら、様々な録音にも参加している。その中には、このインタビューを行った記者の作品も含まれるという。

彼のギターの選択も時代とともに変化してきた。

「トリロジー・アルバムでは1959年製ギブソン・レスポールを使っていた。当時はMesa/BoogieAmpegのアンプを使っていたね」。
「その後、しばらくフェンダー・ストラトキャスターを使っていたけど、プレイスタイルの変化に合わせてギターも変えたんだ。最終的にLarrivée(ラリヴィー)のカスタムギターを選んだよ。これはとても汎用性が高いし、僕の演奏スタイルの一部になっているビブラートアームも付いている」。

近年では、シャッファーの音楽が若い世代にも再発見される機会が増えている。

例えば、クリスティーナ・アギレラは2018年のアルバム『Liberation』でシャッファーの楽曲「No Registration」をサンプリングし、「Sick of Sittin’」という曲を制作した。

また、彼はかつてのABBAの仲間であるアグネタ・フォルツコグと再び共演。彼女の2023年のアルバム『A+』に収録された「Past Forever」でギターを担当している。

50年以上のキャリアを振り返って

「もし僕の最初のソロアルバムを聴いて、それから最近の音楽を聴いてみれば、僕の演奏や作曲スタイルが大きく進化しているのが分かるはずだよ。
僕は決して一つの型にはまらないようにしてきた。新しいことに挑戦し続けることが僕の音楽への情熱なんだ。そして、できる限り長く演奏を続けたいと思っているよ」。

https://www.guitarplayer.com/guitarists/janne-schaffer-sweden-session-guitarist

 


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